★9/26(土)ロッテ23回戦

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Bs 2-6 M
(千葉:25,112人)

勝:清水6勝7敗
S: -
敗:平野3勝12敗

HR:(ロ)西岡13号ソロ(1回,平野),福浦6号ソロ(3回,平野),南2号2ラン(8回,菊地原)


2009年通算:136戦中53勝82敗1分 勝率.393
パ・リーグ順位:6位
対ロッテ:14勝9敗0分

交流戦成績:24戦中8勝16敗0分 勝率.333
交流戦順位:11位



一昨日は成瀬にわずか2安打
昨日は一転得意の清水に10安打

さぞかし大勝したかというと



オリックスは10安打を放ちながら適時打がなく,2点しか奪えなかった。
 チーム打率でリーグ2位を保ちながら,最下位に低迷するチームを象徴する敗戦に,
 大石監督は「もう1本が出なかった…」と嘆いた。
 0-4の五回に無死満塁で中軸に回ったが,下山,ローズの内野ゴロによる2点止まり。
 八回には無死二,三塁としながら得点できず,その裏にダメ押し点を奪われた。
 「チャンスの後にピンチあり,と言いますしね」と大石監督。
 27日のロッテ最終戦に負ければ借金は30まで膨れ,2季ぶりの最下位が確定する。

 平野(6回4失点)
 「三,四回と2死(走者なし)からの失点だったので,
 もっと慎重にいかなければいけなかった」
 
 日高(12敗目の平野に)
 「(先頭打者本塁打は)引きずってなかったし,その後も要所は抑えていた。
 ただ,勝負どころで粘り切れなかった」』



あと一本が出ない今季のオリックスを象徴する試合

平野の12敗目も今季の象徴



『3連敗で借金は最多の29に膨らんだ。
 5位ロッテとの直接対決にも連敗。ゲーム差は7に開いて,
 きょう負ければ2年ぶりの最下位が決定。
 タイムリーが出なかった。
 5回無死満塁では下山とローズの2本の内野ゴロの間に2点を返しただけ。
 10安打を放ちながらこの2得点だけで,大石監督は
 「5回はクリーンアップがねえ。1本が出なかった」と悔しさをにじませた。
 8回無死二,三塁でも無得点に終わると,その裏,南に2ランを浴びてダメを押された。
 先発・平野は西岡に先頭打者アーチを浴びるなど6回4失点で12敗目。
 「ストレートは良かったけど,まぶしくて自分の球筋がわからないまま投げてしまい,
 もったいなかった」と責任を痛感していた。』



昨日もBSで観戦していてもどかしい気持ちでいっぱいになりました。
今日負ければ最下位確定という重い話題を忘れて一日遅れでこの記事を



『巨人V9時代の二塁手として活躍し,
 オリックスの監督も務めた土井正三氏が
 25日午後零時24分,膵臓(すいぞう)がんのため都内の病院で死去した。
 67歳。兵庫県神戸市出身。
 通夜は28日午後6時から,葬儀・告別式は29日午前10時30分から,
 いずれも東京・大田区池上本門寺で行われる。喪主は長男・健一氏。
 オリックス監督時代にイチローの打撃フォームを否定し,1軍で起用しなかったのは有名な話。
 しかし後年になって「川上監督が,高田(現ヤクルト監督)が
 (巨人に)入ったときに2軍に落としたことがあったが,
 それは天狗(てんぐ)にならないようにするためだった。
 イチローに対してもそう思っていた」と語ったように土井氏ならではの育成法だった。』



オリックス監督時代で必ずイチローとの対比で引用される土井監督

西宮球場からGS神戸に変わり広い外野を有する球場のスタイルに適応するため
打高投低だった当時のスタメンを変えようとしていた指揮官のイメージが強い

そのため従来のファンからはかなり不評でしたね。
Aクラスにいるチームに変革は必要ないというファン心理なんですが
優勝してた状態じゃないですからね。

常に変革は必要だったと思います。


話はイチローに戻ってこんな記事を



『巨人の名二塁手としていぶし銀の働きでV9に貢献した土井正三さんが
 25日,膵臓(すいぞう)がんのため67歳で死去し,球界に悲しみが広がった。
 オリックス監督,巨人コーチも歴任した土井氏の早過ぎる死は,
 ゆかりのある記者にとっても痛恨だ。
 「イチローの才能を見抜けなかった監督」。
 土井さんはずっとそんなレッテルをはられてきた。
 1991年のドラフト会議でオリックスから4位指名されてプロ入りしたイチローが,
 土井監督時代の最初の2年間,1軍と2軍を何度も往復したのは事実。
 イチローがメジャー1年目でMVP,新人王を獲得した2001年オフには,
 「当時のオリックス・土井監督時代から2軍落ちを通告されたイチローは,
 泣きながら落とさないでくださいと直談判した」という記事を掲載した新聞もあった。
 「あの話は本当ですか」。
 思い切って土井さんに直接聞くと,率直に答えてくれた。
 「俺だってイチローの素質を見抜いていて,
 モノになれば10年は1番打者に困らないと思っていた。
 ただ外野は高橋智,タイゲイニー,藤井とそろっていて使うところがなかった。
 あの年(93年)で監督を辞めるつもりはなかったから,次の年のことを考え,
 2軍で試合に出て経験を積んでこいと言って落とした。
 泣きながら言いに来たのはイチローが初めてで,これはいい選手になると思った」と明かした。
 しかし土井さんはその年限りでオリックス監督を解任され,
 イチローは翌94年に仰木監督の下で,210安打を打ち大ブレークしたのだ。
 土井さんが01年のマリナーズ・ピオリアキャンプを取材しグラウンドに降りた時,
 イチローも気づいていたが,結局お互いに一歩が踏み出せず,
 その後も絡むことはなかったと聞く。
 土井さんはオリックス退団後も,
 毎年オールスターのファン投票の時期には,イチローに入れていた。
 00年に「20世紀ベストナイン」という企画があった時にも,イチローに投票した。
 自分を使ってくれなかった監督のことは面白くないかもしれないが,
 才能は見抜いていたのだと,イチローにわかってほしい。』



1軍での代打,代走での出場より2軍での4打席
土井さんの想いがわかる気もします。


高卒ルーキーで3年半2軍で鍛えられたなにゴジ岡田がこの記事の意味を理解してくれると
未来のオリックスは明るいかなと思ったりしました。


土井氏のご冥福をお祈りします。




【写真は,今年の冬のイチローと岡田の合同練習。タイプは違うが久々のオリックスの自前スターへ】