田口壮スペシャル!!~またオリユニを着る日まで

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入団した日のことも
優勝,日本一の日のことも
メジャーへ移籍した日のことも
メジャーで頂点に立った日も
再びオリユニを着た日のことも
釈然としない退団の日も
そして昨日の会見もずっと忘れることはないでしょう。

オリックスファンとしてこんなに気になる選手は
イチローとこの人だけなんです。

イチローのマスコミ注目度は半端じゃないですが
オリックスに戻ってきて改めて観察してみて
グランドでの動き,試合前のアップや練習,イニング間での所作
こんなに完璧な野球人がいるのかと感嘆しました。

そんな男の現役への決別の記事を

オリックスカージナルスなどでプレーした田口壮外野手(43)が10日,
都内で会見し,現役引退を正式に表明した。
阪神大震災後に「がんばろう神戸」をかけ声として
イチロー外野手(38=現ヤンキース)らと
パ・リーグを連覇した95,96年などを思い出に挙げ,涙を見せた。
今後はホリプロ所属の野球解説者として活動する。 
断ち難い現役への未練が,涙となって表れた。
何度も声を詰まらせながら,田口は
「体力的,精神的には大丈夫だが,ふと“次のステップに進む時機かな”と思った」と話した。
昨秋オリックス退団後,古傷があった右肩を手術。
リハビリを進めながら7月31日の国内トレード期限までオファーを待つ一方で,
将来の目標を思い浮かべるようになったという。
「こういうことを考えだしたら潮時だと思った」と引退を決めるに至った心境を明かした。
日本で12年,米国で8年戦った。
数え切れない思い出。
田口はその中から「阪神大震災の後の95,96年は鮮明に覚えている。
震災の後のぐちゃぐちゃになった街,その中でプレーをしたことは特別なこと。
大リーグでは,06年に初めて世界一になったこと。
勝った瞬間は,映画のワンシーンのようにきれいに残っている」と振り返った。
故仰木彬監督の指揮下,神戸復興のシンボルとなったオリックス。
外野を,91年ドラフト同期のイチローと固めた。
「2人でよく僕の車で出かけ,ギョーザを食べ,カツ丼を食べ,
野球の話をして…という休日を過ごしたのが思い出です。
一緒に1,2番を打ち,2人とも早打ちなので2球で2アウトになったり…。
野球を知ってるのか!と先輩によく怒られました」
そのイチローが「ライトとして最もやりやすいセンターだった」と回想したことを伝え聞くと,
「守っていて目が合えば,お互いに何を考えているか分かる。
凄く野球をしやすい選手でした」と笑顔で返した。
マイナーからはい上がって06年カージナルス,
08年フィリーズで世界一のチャンピオンリングを獲得した栄光も心の引き出しにしまい,
第二の人生はホリプロのスポーツ文化部に所属し,解説者として歩きだす。
会見に同席した同社の堀義貴社長は
「これからの野球少年にアピールし,その先には野球界,
メジャーリーグの指導者として活躍されたい田口さんの今後を応援したい」と話した。
「謙虚に勉強し,いろんなレベルの野球に携わっていければ」。
涙が乾いた視線の先に,新たな夢が広がっていた。 

オリックスT―岡田
田口さんとは2年間一緒にプレーさせていただきました。
野球に取り組む姿や常に全力な姿勢,
さまざまな状況を考えてプレーされる姿は参考になりました。
野球人としても人間としても尊敬していましたし,全てにおいてお手本になる方でした。

田口 壮(たぐち・そう)
1969年(昭44)7月2日生まれ,兵庫県出身の43歳。
西宮北―関学大から91年ドラフト1位でオリックス入団。
95年リーグ優勝,96年日本一に貢献。
01年オフにFA宣言し,日本人3人目の野手として大リーグ移籍。
06年カージナルス,08年フィリーズワールドシリーズ優勝を果たした。
カブスを経て,10年にオリックス復帰。
11年オフに退団した。
ベストナイン1度,ゴールデングラブ賞5度。
00年シドニー五輪代表。1メートル77,77キロ。右投げ右打ち。

この記事にいろいろ凝縮されてるのであえて何も言いません。
そして盟友イチローのコメントも

ヤンキースイチローが,田口の現役引退について口を開いた。
91年ドラフトでオリックスに同期入団。
イチローが01年にマリナーズに移籍するまで9年間チームメートで,この間日本一1度,
リーグ優勝2度を果たすなど,ともに主力として古巣の黄金期を引っ張った。
「寂しいですね。あの人,明るくするから余計に寂しくなる」と話した。 
田口が4歳上だが,ともに入団から2年間は2軍暮らしが続いた。
寮で寝食をともにした仲で
「よく三宮に行って,プライベートでの思い出が田口さんとはたくさんあるね」と懐かしんだ。
もちろん,グラウンド上での思い出も尽きない。
「お互い同期で意識してやっていた」といい,鉄壁の右中間コンビとして名をはせた。
さらに「最もやりやすいセンターでした。
アイコンタクトだけでいろんな情報が入ってくる。
そういうセンターでした」と話した。
語り草となっているのは96年10月24日,巨人との日本シリーズ第5戦。
仰木監督の猛抗議によるプレー中断中に,
左翼の田口とそれぞれの定位置間でキャッチボールを開始。
2人の地をはうような力強い遠投は,イチローと田口の名を全国に知らしめた。
7月23日にヤ軍に移籍が決まった際には伝言メッセージをもらい,その後電話で話したという。
「“頑張って”と。普通のメッセージだったですけどね」。
その声のトーンは,最後まで寂しげだった。

こういう関係っていいですね。
自分とイチローは同い年ですが
自分より4つ上でこんな存在がいたら仕事をしていく上で心強いでしょうね。

最後に田口のコメントをもう少し

【田口に聞く】 
「まずお伝えすることは…引退します。
敵味方関係なく,いろいろ支えていただいた裏方さんや
チームの関係者,応援団,ファンの皆さん,
常に僕のそばにいてくれた代理人や僕の両親,家族に感謝の気持ちを述べたいと思います。
本当にありがとうございました」

 ――野球とは,どんな存在か。
「人生の全てだと思いますし,僕にとっては一つのフィルターみたいな感じのもの。
野球を通していいことも悪いことも学び,野球があるからこそ自分が大きくなれる」

――野球を続けてこられたモチベーションは。
「野球を好きだったということと負けたくない気持ちが強かったこと。
それと“まだ成長できるんじゃないか”という気持ちが衰えなかった。
最後1年の浪人も,この中から見つかることがあるんじゃないかと思ってやってこられました」

自在の妙

これは田口がオリックスに戻ってきた年に
球団から発売された田口Tシャツに刻まれている文字

気に入ってて今も着ていますが
この言葉も気に入ってて田口らしい一言だと思います。

自在の妙

自分もこの言葉が似合う男になりたいものです・・・

田口壮オリックス監督
絶対に見てみたい未来予想図です。




【写真は,自分の青春時代を象徴する一枚。この時は彼らも自分も若かった(笑)】